キューバ、フィデル・カストロの終わりと、音楽制作の始まり
2016年、フィデル・カストロが亡くなった時、キューバにいた。ダンスとライブのイベント「Baila en Cuba」に参加していて、ちょうどライブを観ていた夜のことだった。確かイベントがあと2日で終わり、って時だった。
突然、演奏中にライブが中断、「フィデルが亡くなった」とアナウンスされた。そして、その日から、1週間だったか10日だったか、喪にふくすことになったのだ。
ライブ中断直後の様子↓
音楽禁止、酒類の販売禁止、テレビも全部フィデル追悼番組のみ。
13年ぶりにキューバに来たのに、このタイミングで、フィデルが亡くなるなんて・・。
もちろん、それは悲しいことだけれど、こちらは外国人、ただの観光客に過ぎない。音楽と踊りのために来たのに、音もダンスも禁止。残りのライブは全部キャンセルされて、ライブハウスや劇場も閉まってしまい、本当に途方にくれた。
ISAで取っていたダンスクラスは、なんとか続けられた。学校はとにかく広いので、音がもれる心配なし。でも、外では音楽をかけてはいけないので、個人レッスンは、窓を閉めて、音を小さくして、ひっそりとやっていた。やることなくて、もうダンスレッスンするしかなかった・・。
音楽もライブもないので、本当に暇(フィデル、ごめんね)。もちろん、みんな普通には暮らすのはOKだけど、一応みんな喪にふくしているし、こちらも静かにしておかないといけない。
ホームステイしていたカサで、フィデルのTVばかり観ていた。とてつもなく、歴史の変わるタイミングにいるのかな、と思った(実際は、思ったより変わらなかったけれど)。
よく知らない人だし、会ったこともないけど、テレビで見てた人だし、すごく悲しい気持ちになる・・。
この時によくテレビでかかっていた曲が、「CABALGANDO CON FIDEL」
(興味のある方は、このタイトルで検索してください♪)。
歌詞はこの際置いておくとして、とにかく哀愁ただよう、9THから始まるAメロが秀逸!!!Aメロは低く始まって、A’は、1オクターブ上を歌うというメロディもよくできてる♪3拍子の曲で、アレンジなど、スペインの影響をすごく感じる。
あまりにも暇すぎて、マレコンで、夕暮れを過ごしたりした。思えば、毎日踊り狂ってて、キューバの観光なんて、まったくしてなかった・・。フィデルが亡くならなければ、マレコンでのんびりすることもなかった。
革命広場の記帳は、あまりにも列が長くて、暑かったので、あきらめました。キューバは、とにかく待つし、列を作って、忍耐強い。
下の方は、列がグダグダ。入った人によると、記帳まで、1時間半並んだそうです。すごく暑い日でした!
この日、私は靴を学校に忘れてしまい、それを探しに行ってたのだった。キューバはとにかくモノがないので、失くなってもしかたがないと思ってた。モノがない、つまり売ってないから、私がその靴を失くしたら、新しい靴は、日本に帰るまで買えないということ。私に残されたのは、ダンスシューズのみ。これで日本まで帰るのか・・・。
ところが、諸事情あって、私の靴は、ある有名な方のお宅で預かられていたことが判明(驚き)。キューバ人に、
「そのことは書かないで。」
と言われているので、くわしくは書けない。キューバは、言ってはいけないことが、いろいろあるのだ。
そしてフィデル・カストロの遺骨が、サンティアゴ・デ・クーバまで運ばれる葬列があるというので、見に行った。朝6時前、沿道には、多くのキューバ人が集まっていた。朝もやでけむってます。
私は外国人で目立つので、
「あなたはここに入んなさい。」
と、場所を少し詰めてくれて、キューバ人ファミリーの間に入れてもらった。
向こうのほうで、白人のキューバ人が、談笑していた。その人は、人々が入れない、沿道の真ん中に立っていた。隣のマダムが、
「あの人、英雄の○○さんよ!」
と大騒ぎしだした。なんだか、とっても有名な人みたいだったけど、私は今でもよくわからない・・。マダムたちの方が盛り上がっていて、その英雄の男性に、
「ちょっと!あなた!こっちに来て、この外国人の子と写真撮ってよ!」
と、その男性に向かって叫んだところ、男性が気がついて、こちらにやって来てくれた!
そして私は知らないけど、キューバ人はみんな知ってるらしい、英雄と少しお話して、写真撮ったのだった。
結論:知らない人は、有名な人であれ、ただの白人の兄ちゃん・・猫に小判(笑)。この方、ロス・シンコ(キューバン・ファイブ)の一人だったようです。
フィデルを待つ間、沿道では、フィデルの歌か、キューバの歌か知らんけど、合唱する人たちもあり、なかなかの雰囲気だった。そんな中、「フィデルが出発したぞ!」という声が。誰か、ラジオかなんだで、情報を得たみたい(2016年は、まだ街中でインターネットは使えてない)。そして、みんなフィデルを撮ろうと、スマホやカメラを構えるという、すごく今時な光景が広がっていた。まさか、フィデルも、自分にスマホ向けられるとは、思ってなかったよね・・。これこそ、革命だよね。私もCANONのカメラを構える。
そんな中、だんだんフィデルの車が近づいてきた。歌ってる人たち、声をあげてる人たちもいる。そんな中、車がやってきた!ん?!
フィデルの遺骨は、それは軍の車?に別で接続され、引かれていた。ものすごく驚いたのは、そのスピード。普通の車の速度で、あっという間に走り去ったのだ!!!えええええ~~~???!!!その間、10秒くらいしかなかった(と思う)。もっとおごそかにゆっくりと、葬列として、走ってくるんじゃないの?!イギリスとか、日本も含め、そうでしょう?
ところが、車は質素で、なんの飾り気もなくて、またまた驚く。本当にカラカラカラ~と、フィデルの遺骨は引かれていったのだ。これが社会主義か・・と思ってしまった。
フィデル・カストロは、生前から、自身の像を建てたり、偶像化しないようにしていたから、これも本人の希望かもしれない。えらくあっさりした葬列だった。
サンティアゴデクーバに遺骨が付き、お墓に入るところが、TV中継されていて、それをカサのファミリーと一緒に見ていた。するとママが、
「この人が、フィデルの奥さんよ!」
と言い出した。ママによると、めったにメディアには出ないとのこと。
そして弟のラウルが、骨を納めた。どんなに偉業をなしたとしても、人は必ず死ぬんだよね。あんなに大きかった人が、こんな小さくなってしまうんだね。
13年ぶりにキューバに行ったのに、フィデルが亡くなって、ライブも中途半端になってしまい、すごく残念な気持ちから、次の年も「Baila en Cuba」に参加した。ダンスクラスは取らなかった。本当は、2016年に行ったら、もうキューバに行く気なんか、まったくなかった。
スペインの恩師に、
「私はこれです!というものを、恐れずに表現しなさい。」
と言われ、少しずつ、自分を出し始めた。キューバで、
「私は音楽をやっています。」
と言い始めた。
2017年、ふたたびキューバに行って、自分を表現しようと、思ったとたん、こちらでなにかを言ったわけでもないのに、急にミュージシャンと知り合うようになり、つながりができた。ただ、自分の在り方を変えただけで、音楽をやっている人たちが、向こうからやってくるようになった。
そして、「音楽をやっています。」という一言は、非常に強かった。音楽をやるもの同志は、言葉が多くなくても、わかりあえることが多い。もちろん、これまでスペイン語を勉強してたことも、大きかった。
そして、最終的には、一緒に曲を作ってレコーディングをしたり、楽曲をリリースしたりすることができるようになった。人生って不思議。それもこれも全部、思い立って、キューバに行ったこと、そしてフィデルのおかげでもある。直観に従って動いたら、こういうことになったのだ。人生、なにがあるか、動いてみないとわからないよね。
追記:一年後、フィデル・カストロの一周忌。どんなイベントが?!と思いきや、意外とあっさりしていて、一年前、あんなに喪にふくしたというのに、あっさりしたものでした。はっきり言って、誰もどんなセレモニーがあるかさえ、よくわかってなかった。普通に音楽もやってよかったし、ライブもできて、一年前はなんだったんだろう?って感じでした。
ちなみに、カストロが亡くなって、キューバが大きく変わるかも、と思ったのですが、思ったほど変わりませんでした。そして、そのあとを継いだ弟のラウルも引退。もっと開けた国になることを祈ってます。そして、国民がもっと豊かに暮らせますように。